燦然と輝く吾が凌霜庭球倶楽部
過去に幾多の名選手を世界の桧舞台に送ってきた輝かしい歴史を誇る吾が硬式庭球部は筆者の生まれる26年前, 1905年に神戸高商学友会内に創設された。勿論当時の様子などは筆者の知る所ではないが、幸にして硬式庭球部創立50周年、75周年記念誌が夫々発行されており創設時の事情から時代の移り変わり、その間に輩出した数々の名選手の国内に留まらず世界を舞台とした活躍振り、それぞれに拘わる逸話などが豊富に記載されている。それらは与えられた字数では到底語り尽くせるものではないが、これを参考に筆者なりに纏めてみた。疎漏の部分については何卒お許し頂きたい。
緑荷生のペンネームで実に延べ20年通算95回に亘り凌霜誌に「好漢列伝」と題する人物紹介を書かれた故岡誠二凌霜庭球倶楽部会長(明治45年卒 6回生)は創設期の事を「当時開校後間も無い事とてテニスコートなど完備しておらなかったが一回卒業生の市田幸四郎氏は自費を以って選手用のコートを新しく作り自分が中心となって同好者を集め茲に神戸高商庭球部を創設した大恩人であった」と言っておられる。岡先輩の庭球部50周年誌冒頭の「燦然と輝く吾等の庭球部」と題する言葉は将に凌霜庭球倶楽部の真髄を謳ったものと思われるので紹介しよう(一部省略)。「他に比肩するもの無きその友情の美しさ、その団結の強さは先輩より後輩へ一貫せる縦の連繋となりて現れて居る。人の和の達して極まる所、先輩は後輩を可愛がり、後輩は先輩に甘え、同輩は互いに助け合う。これ程強いものはない。吾等は時に日本の覇者となり、時に名選手を世界の桧舞台で活躍せしめた。今後もしばしば同じ事が繰り返されるであろう。吾等生まれてここに50年。嬉しきかな嬉しきかな、吾等は大盃を挙げて名門凌霜庭球部の為に万歳を叫びたいと思う。高らかに高らかに。」。
そして創部から約15年間は当時日本全体がそうであったようにテニスと言えば軟式庭球であったが、関東では硬式テニスを採用する学校が出始め (1913年に慶応が初めて硬式を採用) 大正10年 (1921) 関西でトップを切って母校が硬式を採用、設備、用具から輸入ボール (当時国産の硬式球は無かった) までその費用たるや莫大なものであったので学友会、学校との交渉、先輩諸氏に多額の寄付のお願いなど大変な苦労であったと当時のマネージャー川瀬孝二先輩は回顧して居られる。その頃に現れたのが鳥羽貞三先輩である。100歳にして今尚ご健在、ゴルフを楽しみ、その頭脳明晰、記憶力の非凡な事に東京凌霜クラブの会合に出席した者は皆驚く。極東オリンピック代表として活躍、1926年デ杯選手に推薦されアメリカゾーンで優勝、その後もデ杯を含む世界の桧舞台で活躍、国内でも第一回の全日本庭球ランキング単2位等其の戦績たるや目を見張るものが有る。
1931年に欧州留学より帰国された故田中 薫教授は戦前、戦後を通じて長期にわたり母校庭球部長としてお世話頂いたのであるが其の想い出をこう語っておられる。「神戸高商のテニスコートは神戸旧市内、上筒井の丘の上にあった。古い学舎に囲まれ、一方に雛壇の土手を巡らした窪んだ感じの落ち着いたコートであった。当時授業の済んだ学生達が自然とコートを囲む。コート上では布井(良助)、桑原(孝夫)、伊藤(英吉)などデ杯選手が激しく打ち合って練習して居たのだから引き付けられるのは当然であろう」と。今も六甲台の部室の壁には佐藤次郎(早稲田)布井、伊藤の三氏が1933年デ杯に向かう大西洋上で一緒に写した写真が掲げられている。又三選手揃ってウインブルドン(全英テニス選手権大会)に出場、特に佐藤・布井ペアーは複優勝戦まで勝ち残った。布井選手ほど世界の人々に愛され、敬われ、賞嘆されたプレーヤーは少なく戦争と言う悲劇が若くして命を奪ってしまった事は惜しんでも余りある事である。伊藤先輩は90歳の今も伊藤忠顧問として各方面にご活躍である。
昭和15年(1940年)8月、小寺治雄先輩(学11回)が全日本選手権に優勝、全日本ランキング1位となったが当時の日記にこうある。「密かに勝利の野望を抱きながら、其の中で冷静を冷静をと激しい内面闘争を続けなければならない。エキサイトする中に常に計画し、冷静に思い巡らし、それが人間を奥床しい感情の持ち主にするのだ」。近年病を得、大手術を克服しトーナメントで頑張っておられる姿を見ると60数年前のテニスに対する情熱が少しも衰えていない事が分かる。
岡会長が昭和49年にご逝去になり不破榮一先輩(学5回)が次期会長に就任された。とても気さくな不破先輩には現役の頃から随分お世話になり、事ある毎に昔の名選手の有り様を詳しくお話頂いた。佐藤選手の打つ球がベイスラインの上を1メートルづつ移動し最後にオープンコートにスカーとエースを獲る話は真に迫っていた。旧三商大OB戦の他、行事のある度に御出席頂き他校役員とも親しくご歓談頂いたが数年前より脚痛の為公式の場より遠ざかって居られるので渡辺健一会長 (学23回) が後を継ぎ現在に至っている。
さて話しは終戦後に移る。北村哲次 (学18回) 、岩根弘 (学19回) 両先輩により庭球部再建強化運動が起こりそれが昭和27年 (1952年) の輝かしい大学対抗庭球王座決定戦(甲子園コートで挙行)に関東の覇者慶応を5−4で破り遂に国立大学として唯一無二の王座を獲得した事に繋がったと言って良いだろう。前年の関西大学対抗で田淵実主将 (学22回) のもと全部員が奮起し中でもNo.2の単で故澤松正先輩が2セットアップから痙攣を起し、ファイナル0−4までリードされそこから不撓不屈の精神力で挽回し宿敵関学に5−3(1分け)で劇的勝利を収め、関東の覇者早稲田 (加茂兄弟、宮城と日本のトップ選手を擁していた)と東京パレスコートで大学対抗王座を懸けてで対戦、スコアーは6−3で敗れたが試合前の予想に反し、各選手善戦し早稲田の心胆をを寒からしめたのであった。27年は田淵主将こそ卒業したが渡辺健一(主将)、澤松正(副主将)、 生駒一夫(マネージャー)(以上学23回)、 橋本守(関西学生庭球連盟幹事長)(新1回)を始め選手として溝部拡、中島敏 (学23回)、石川哲二、小島康夫 (新1回)、柿崎善弘 (新2回)、佐野健 (新3回)と堂々の陣容、大市大を一分けを含む6−2で破り、前年苦戦した関学を8−1で一蹴、前述の通り王座に輝いたのである。単No.1を残し4対4で勝負はこの試合にかかったが慶応の選手の打った球がアウトして勝利決定の瞬間そこに居合わせたもの全員が試合後の挨拶をするのも忘れ皆抱き合って暫し感涙に咽んだのであった。その時の事を生駒マネージャーは「この対抗戦において神戸の勝利を確信し得る者は無かったであろう。天運地の利が勝敗に影響した事は明らかであるがこの対抗戦に於て本学庭球部の先輩諸兄並びに全部員の発揮した“人の和”の偉大な力こそ激闘の帰趨を決するに最も大きな役割を果たしたのである」と書いている。特に経済的に、精神的に現役学生を支えて下さった諸先輩、又イレギュラー部員の献身的な応援、選手への気配りなくして、この栄光は有り得なかったであろう。この年の学生の試合は関西二軍リーグ戦の優勝を含めありとあらゆる対抗戦に勝ち、学生のトーナメント単複に抜群の成績を収め、渡辺・澤松二人で取り得なかったカップ・トロフィーは全日本学生の単のみであった。この年後半に終戦後駐留軍に接収されていたプール下のコート4面が返還されやっと自前のコートで練習が出来るようになった。翌28年には柿崎、佐野を除くレギュラー選手役員全員が同時に卒業してしまい著しい戦力低下に苦戦したが全員一丸となって良く一部リーグの2位を保った。ここに特筆すべきは、昭和29年に当時の長浜マネージャーの募金に精根を傾けた努力と、諸先輩のご理解ご協力により瀟洒なクラブハウスがコート横に建設された事である。中でも中部先輩 (大正13年卒)、中牟田先輩 (学9回) にはクラブハウス資金の他、地方合宿の丸抱え等経済的に多大のご援助を賜った。中牟田先輩には長年日本庭球協会の会長を務められ母校のみならず日本の庭球界に多大の貢献をされたのである。
続いて善野・多久の時代となり30年の関西学生で善野単に優勝、多久と組んでの複にも優勝した。31年には善野・多久全日本学生複2位、またこの年に市山、中島、徳田等高校庭球で優秀な成績を収めた選手が入学。32年には関西学生多久単優勝、全日本学生・関西選手権単に多久2位、複多久・市山2位そして多久は戦後始めての学生海外試合、第一回ユニバシァード大会 (フランス、パリ)に派遣された。1960年春には市山がデ杯選手に選ばれ石黒、長崎(慶応)、古田(関学)と共に東洋ゾーン2回戦で韓国を5−0で破り準決勝でフイリッピンに3−2で惜敗したものの戦後のデ杯選手としての栄誉を得た。関西大学対抗リーグは39年まで現役選手頑張って一部に留まったが国立大学であるが故に高校での名選手を獲得する事が難しく一方私学はスポーツ推薦入学があり選手層が厚い為どうしても抗しがたく、二部に転落、42年、43年と50年に一時一部に帰り咲いたものの、その後は二部、三部を低迷している。しかし今年7月8日三部の事実上の優勝戦である対大阪教育大学戦に7−2で勝ち優勝8月後半に行われる二部リーグに臨み優勝すれば一部復帰も夢ではない。当日渡辺会長、菅井、曽根、市山、中島、徳田などに加わり筆者も応援に参加夕暮れが迫る六甲台コートで勝利の勝鬨をあげた時には数時間たちんぼうの疲れも忘れ50年近い前の事を思い出し胸にぐっと熱いものが込み上げてくるのを禁じ得なかったのである。
(昭和30年 佐野 健)
後書: この記事は平成13年6月に凌霜百周年誌に寄稿の為記述したものであるが、与えられた紙面が1頁と制限された為、結局は短縮に短縮を重ねたものが掲載された。
なお文中の不破先輩は平成13年8月1日に、鳥羽先輩は平成14年1月18日に何れも百周年誌の刊行を待たず惜しくも逝去された。