神戸とテニスと布井良助先輩

2009年10月
                             市山 哲(昭和35年卒)


英国で生まれた近代テニスが、最初に我が国に伝わったのは外人居留地のあった神戸と横浜で、

明治初頭には既にテニスコートがあったと言われている。

それ以来、神戸から大阪にいたる地域は我が国でもっともテニスの盛んなところとなり、東京とともに

日本のテニスを支えてきた。神戸大学に庭球部が創設されたのは明治38年であるが、当校もその

頃から全国的に活躍する数多くの選手を輩出し、戦後も昭和27年には全日本大学対抗戦で優勝

するなどの実績を残している。

 私はこの神戸に育ち、中学1年の時からテニスを始めた。そしてすっかりテニスの虜になり、

中学から大学までの10年間はテニスに明け暮れた。高校3年生の時に、幸いにも全国高校庭球

選手権大会の単複に優勝したこともあって、いくつかの大学から誘いがあったが、私は神戸大学を

受験した。その理由の一つは神戸大学がテニスの名門校であるということであった。特に世界的な

名選手であった布井良助を生んだということは大変に魅力的であった。

 数年前に、その伝説の先輩が急に身近に感じられることが起こった。それは平成17年に神戸

大学硬式庭球部100年史を編纂していた時のことである。思いがけない御縁で、布井さんが残さ

れた唯一人のお子様である竹見康子さんに何度かお会いする機会を得たのである。布井さんは

竹見さんが5歳のときに出征して、そのまま不帰の人となってしまったので、竹見さんが父親と

過ごした時間は大変少なかった。それでも、阪神パークに連れて行ってくれたり、お風呂に入れて

もらったことを良く覚えていると話された。

 布井さんが一躍世界のテニス界に名を馳せたのは、昭和8年のことであった。この年、ヨーロッパに

長期遠征した布井さんは、佐藤次郎(早稲田)とともに国別対抗戦であるデビスカップを闘い、

ハンガリー、アイルランド、そして強豪のドイツを破ってヨーロッパゾーンの準決勝戦にまで駒を進めた。

準決勝戦の相手は当時世界ナンバーワンのクロフオードを擁するオーストラリアであったが、

日本は死闘ともいうべき激しいゲームを展開し2対3で惜敗する。さらに5月の全仏テニス選手権

大会と、6月の全英テニス選手権大会(ウインブルドン)において、布井さんは佐藤次郎と組んだ

ダブルスで準々決勝戦と決勝戦まで進出、いずれの試合においても、当時世界に君臨していた

ボロトラ・ブルニオン組(仏)をあと一歩のところまで追い詰めたのである。これらのニュースは世界の

テニス界を驚かせ、布井の名前は佐藤とともに世界的なものとなった。

1933年全英選手権男子ダブルスの佐藤次郎(左)、布井良助両選手

布井さんは昭和9年に大学を卒業し住友銀行に就職するが、昭和17年には召集されて南太平洋

戦域に派遣された。そして終戦の年である昭和20年には、インパールから撤退する部隊の中に

あってマラリアに罹っておられたが、このままでは自分の担架を担いでいる部下達も全滅すると

判断し、部下を偵察に行かせた隙に拳銃で自殺されたのである。その日は7月21日で終戦まで

あと1カ月足らず、場所も中立国タイに近いシッタン河のほとりであった。その時生き延びた部下が、

戦後43年たって竹見さんを探り当て、遺品の腕時計を届けた。竹見さんにその腕時計を見せて

いただいたが、それに触れた時、伝説の布井さんが本当に身近に感じられた。

 テニスは、戦う競技という側面の一方で国際的な社交性を持つスポーツである。私も、ロンドンと

ブラッセルに駐在した時、現地のクラブに入ってテニスを楽しんだが、テニスが私の駐在員生活を

どれだけ豊かにしてくれたか計り知れない。テニスを通して多くの出会いがあり、またクラブの

メンバーとは家族ぐるみの付き合いとなって今でも文通が続いている。

神戸大学の硬式庭球部は、現在男子が関西リーグの2部、女子が3部におり、国立大学としては

よくやっていると思うが、国際的な拠点大学を目指す神戸大学にとって、テニスは誠にふさわしい

スポーツであると思う。庭球部のますますの発展を期待したい。

 次は、吉岡伸敏さん(昭42営)にバトンを渡します。

 (本文は「凌露2009.11号」に投稿したもの)

以 上