親愛なる名村俊朗君(昭和47年卒)との別れを悼む

                           平成19年10月2日
昭和47年卒(20回生)  三田  滋

あまりにも突然の悲しい知らせにただただ茫然としました。9月22日の土曜日に奥様の お名前で一通の封筒が届きました。中には名村君の自筆の手紙に奥様のお手紙が添えて 入っていました。

「昨年末、舌癌が発覚、その後早く治して皆様とテニスをしたり飲み会を楽しみに治療に専念 してきましたが、やはり癌には勝てませんでした」「多くのよき友人に恵まれ納得のいく悔いの ない六十年の人生でした」「長い間、本当にありがとうございました」いつものしっかりとした筆跡で惜別の辞が書かれていました。

「あの人一倍元気な名村がなぜ、嘘だろ」と心で叫びながら何度も涙して読み返しました。奥様のお手紙には、「かねて病気療養中のところ9月18日に永眠いたしました。故人の遺言通り、通夜・葬儀は子ども、両親にて無事執り行いました」とありました。

9月24日に同期の篠原君とともに名村宅を弔問し焼香させていただきましたが、遺影に手を合わせても信じられません。「あんなに元気で、何事にも活発で、気さくで面倒見がよく、みんなから慕われている君が、なぜこんなに早く亡くなるの。

同期の青木、大塚、山田も交えた飲み会をまたやりたかったよね。定年後も昔話に花を咲かせ永く付き合いたかったよな。先輩も後輩もみんな君の早すぎる昇天を本当に残念に思っているよ」 何度も遺影に向かいつぶやきました。

思えば彼は大学からテニスをはじめ、毎年腕を上げ得意のホアハンドを武器に思いっきりのいいテニスをしていました。卒業後も会社のクラブでめきめき腕を上げ活躍していたと聞いています。持ち前のバイタリティでまだまだ好きなテニスが続けられたのにと残念でなりません。

また彼の素晴らしいところは、率先して世話役を買って出るところでした。後輩からは兄貴として慕われていました。亡くなる直前まで介護の仕事に携わっていたことも彼の人柄の現れでしょう。そして彼の好きな言葉のひとつ「ドンマイ、ドンマイ」、この言葉に何度も励まされました。

本当に今までお世話になり有難う。君の笑顔、前向きな性格、男らしさ、そして人一倍面倒見のいい優しさはいつまでも忘れません。君への感謝の気持ちは心の中で生き続けるでしょう。

名村君、安らかにお眠りください。つつしんで哀悼の意を表します。
在りし日の名村君